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第1章 第3話 政略婚の条件と、まだ座らない椅子

Author: 夢見叶
last update Huling Na-update: 2026-01-21 20:52:33

「この椅子に、座るかどうかを」

 クロード様の声が、首筋に冷たく触れた。

 振り向けば、黒髪と銀縁眼鏡が距離を詰めている。噂通りの腹黒宰相。けれど噂より静かで、噂より目が醒める。

「……わたくしに、決めろと」

「決めろ、だが意味を理解してからだ」

 机の隣、空席の椅子を顎で示す。王城の議場と同じだ。椅子は家具ではなく立場だと、この男は言外に告げている。

 わたくしは手袋の中で、あの紙の角を押さえた。

 庭の匂いがする、と言い当てられた脅し文。見せてもいないのに。

 管理下だ、と言われても不思議ではない。むしろ遅いくらいだ。

「嫌なら今すぐ帰れ、とおっしゃいましたわね」

「そうだ」

「帰りません」

 自分の声が、思ったより澄んでいた。

 怖いのに、引き返したくない。鎖の気配がするのに、視線を外せない。前世の画面にはなかった選択肢が、現実には山ほどある。

 クロード様は息を吐く気配すら控えめに、机の向こうへ回った。

 椅子に腰を下ろす動きが無駄なく、背筋がやけに真っ直ぐだ。目線だけがこちらを測り、書類を読むようにわたくしを読む。

「では条件を聞け、今日のうちに決める」

「こちらも条件を出しますわ」

 わたくしが言うと、眼鏡の奥の瞳が僅かに細くなった。驚きではない。想定内だという顔。

「まず、エルネスト家を人質のように扱わないこと」

「当然だ」

「家を盾にすれば、君の思考が鈍る」

 即答が、冷たいのに妙に優しい。

 胸が跳ねて腹立たしい。安心してしまう自分が、いちばん危ない。

「次に、わたくしの身辺警護は貴殿の責任で手配すること」

「侯爵家の護衛では防げない、と言っただろう」

 また言い当てる。

 わたくしは唇の裏を噛んだ。知られている。どこまで。

「そして婚約は形式だけでは終わらせない」

「終わらせたくないなら、ですけれど」

「……ほう」

「わたくしは飾りではありません、噂の素材でもありませんの」

 言い切った瞬間、胸の奥が熱く震えた。

 感情が前へ出るのは苦手だ。けれど今ここで引いたら、また誰かの台本に戻る。

 クロード様は指先で机を軽く叩いた。音が小さいのに、室内の空気が整列する。

 ベルが鳴り、オスカーが無音の足取りで紅茶を運んできた。

 銀器は磨き抜かれているのに、カップの柄は驚くほど地味だ。装飾で油断させない、という趣味なのだろうか。

 わたくしは取っ手に触れる前に香りを確かめた。葉の渋みが立っている。甘い香りで誤魔化す茶ではない。

「慎重だな」

「生き残るには必要ですわ」

「その慎重さを、外でも保て」

 その言葉が、未来の警告のように耳に残った。温かい湯気より先に、冷たい想像が喉へ落ちる。

「宰相の婚約者は、社交の看板ではない」

「政務の延長だ」

「ええ、そこは承知しておりますわ」

「承知していない者が多いから、確認する」

「君は明日から、私の執務の補佐をする」

 明日から。息が詰まった。

 甘い言葉ではない。褒美でもない。労働の宣告だ。

 なのに、心が浮いた。

 怖さと同じくらい、嬉しい。

 わたくしは前世で、攻略対象の背後に積まれた書類を眺めるだけの観客だった。今は違う。触れていい。口を挟める。

「ひとつ、確認を」

「言え」

「わたくしを、盾にするおつもりは」

「ない」

「必要なら盾になるのは私だ」

 言葉が刃のように真っ直ぐで、逆に信用したくなる。

 そんなの、危険だ。信用は、契約より強い鎖になる。

「それはご立派な建前ですこと、では本音の勘定はどちらにお付けになるおつもり?」

 わたくしの皮肉に、クロード様は口角を上げないまま目だけで笑った。

「本音を言えば、君の才覚が要る」

「殿下派の残党は、静観の皮をかぶって息を潜める」

「次に動くのは社交だ」

 社交。

 その単語で、背中が冷える。舞踏会の床。薔薇の香り。視線の棘。

「わたくしは、社交界で生き残る方法を知っていますわ」

「知っているだけでは足りない、誰かが君を消そうとする」

「消す、ですの」

 椅子の噂が脳裏をよぎる。座った者が消える。

 名誉も未来も役割も、簡単に消える。

 わたくしは息を整え、わざと笑った。

 悪役令嬢の仮面は、こういう時に役に立つ。

「筋書き通りに転ぶほど、退屈な女ではありませんので」

 クロード様の視線が僅かに揺れた。感情ではない。興味だ。

 その揺れが、わたくしの中の恐怖を別の形に変える。逃げではなく、挑戦の恐怖へ。

 彼は顎で、例の椅子を示した。

「では座れ」

 心臓が跳ね上がった。

 ここで座れば、わたくしの札が貼られる。宰相の隣。誰も座らせない席。

 わたくしは椅子へ近づき、指先を背に触れかけ――止めた。

 そして、あえて立ったままカーテシーをする。

「まだ早いですわ、座るのはわたくしがこの席に値すると証明してから」

 室内の空気が、また整列し直す気配がした。

 クロード様は椅子を引いたまま、数拍置いてから口を開いた。

「……いい判断だ」

 褒め言葉が、むしろ怖い。

 けれど、胸の奥が少しだけ軽くなる。座らなかった。選んだのは、わたくしだ。

「条件は概ね合意とする」

「住まいは当面、侯爵家でよい」

「だが護衛と連絡網は私が握る」

「監禁ではありませんのね」

「必要ならする、だが君は檻の中で腐るタイプではない」

 言い切られて、悔しいほど当たっている。

 クロード様はベルを鳴らし、オスカーを呼んだ。

 執事が静かに入室し、短い指示が飛ぶ。言葉は少ないのに、屋敷が動くのが分かる。

「明朝、執務室で」

「遅れるな」

「承知しましたわ」

 退出を促され、わたくしは廊下へ出た。

 屋敷の静けさが、さっきより耳に痛い。わたくしの足音だけが、契約書の署名みたいに残る。

 曲がり角で、使用人たちの囁きが聞こえた。

「例の伯爵夫人のお茶会……閣下の婚約者様も、お出になるとか」

「まあ、王太子派の奥方も多いと聞きますわ」

 紅茶、という単語が混ざった。

 脳裏に、白いカップの縁が浮かぶ。次の瞬間、そこへ黒い染みが滲む幻が走った。

 わたくしは足を止めた。

 前世の記憶が、映像のように差し込む。笑顔。乾杯。静かな悲鳴。

 まだ何も起きていないのに、喉が乾く。

 背後から、扉の開く音がした。

 振り向く前に、あの低い声が落ちる。

「招待状は届く」

「君は行け」

「私の婚約者として」

 命令は淡々としているのに、逃げ道を塞ぐ鍵の音がした。

 わたくしは笑みを作った。

 怖い。けれど、退屈よりはずっといい。

「……承りましたわ」

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